それは偽りの自分
自分の「ものの見方」を正しいものだと固執していると、他の人のもつ「もののみかた」を、ついつい正しくないものと見なしてしまいます。 10人いれば、10の立場、10の「ものの見方」があります。あなたにも、もちろん、あなたの立場、あなたの「ものの見方」があります。 その、どれが正しくて、どれが正しくないかなんて、実はなくて、すべては「興味深い(面白い)ものの見方」があるだけなのです。 自分の立つ場所から見える風景に固執してしまうと、他の人が立つ場所からしか見えない風景を、見過ごしてしまう。 もし、自分が正しくなくてよかったとしたら? もし、自分が悪者でもよいとしたら? あなたに、どんな可能性が広がるでしょう? そこから、どんな風景を見ることができるでしょうか? 自分の「ものの見方」や「ジャッジメント」も、単なる一つの「興味深い(面白い)ものの見方」だとして「許容」できたら?他人の「ものの見方」や「ジャッジメント」も単なる一つの「興味深い(面白い)ものの見方」だとしたら。 あなたは、なんの「ものの見方」もなく、すべてを許容する「無限の存在」としての「Being」こそが、本来のあなただと気が付いているのに、 なにをそんなにまで、 あなた自身がもっている「興味深い(面白い)ものの見方」や「ジャッジメント」、そして他人の「興味深い(面白い)ものの見方」や「ジャッジメント」に、迎合、同意、反応、反発から生まれた偽りのあなた(Beingness)を、自分自身だとかたくなに信じ愛し、守ろうとしていましたか? 今、浮上したものすべてを破壊してアンクリエイトしますか?