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ジャッジメントがあってもいいよ。それに振りまわされなければ。



『感覚』が鋭いのと、『アウェアネス』があるのとは別なんじゃないかな。 どんなに『感覚』が鋭くても、それを知らず知らずのうちに『ものの見方』で『着色』、『脚色』してしまえば、『ジャッジメント』に囚われて重くなっちゃう。 生きている以上、私たちは『ものの見方』とは切っても切れない関係にあるんだ。 私たちは、ものに意味を付けたがるし、ジャッジしたがる。 私たちが「生きる」ということは、『興味深い(面白い)ものの見方』を持つこと、創り出すことと、同意義なのかもしれない。 私は思うのだ。 『興味深い(面白い)ものの見方』があってもいいし、『ジャッジメント』があってもいいと。 ただ、それに『気づき』、それを『自覚』して、それに振りまわされなければいいだけなのだと。 どんな『ものの見方」が浮上しようとも、 どんな『ジャッジメント』が浮上しようとも、 「アハハ、今、面白いものの見方が浮上してるなぁ」と、笑って破壊してアンクリエイトしちゃえばいい。 そうすれば、私たちは、何のものの見方もなく知覚し、すべてを受け取ることができるんじゃないかな。 今、浮上したものすべてを破壊してアンクリエイトしちゃう? 本当は軽くなれるのに、 わざわざ重い荷物を背負うことはないよ。 もし、サポートが必要なら、『個人セッション』もやってますので、ご連絡くださいね。 

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