

信頼と信用
『信頼』とか『信用』とかにあまり重きを置きすぎて、重くなっていませんか?
『信頼』とか『信用』という言葉には、期待、投影、ジャッジメント、そしてそれに対する迎合、同意、分離、反応、反発の臭いがプンプンします。
『信頼』、『信用』ということに、『期待』するから、裏切られたように感じます。
でも、そもそも、その『信頼』とか『信用』には、知らず知らず自己の期待、投影、ジャッジメントが重なっていて、さらに迎合、同意、分離、反応、反発、ジャッジメントがビッチリとまといついています。
人の『信頼』、『信用』に応えようとしすぎると、それはあなた本来の『Being』ではなく、
人の期待や投影、ジャッジメントに迎合、同意、反応、反発をして、
『Beingness(偽りの仮面)』を創ることになってしまいます。
もし何かを『信頼』、『信用』するのなら、10秒ごとにしてみたらどうでしょう?
人の『信頼』、『信用』に応えようとし過ぎなければ、あなたにどんな可能性がひろがるでしょうか?
今、浮上したもの全てを破壊してアンクリエイトしますか? #信頼 #信用


ジャッジメントがあってもいいよ。それに振りまわされなければ。
『感覚』が鋭いのと、『アウェアネス』があるのとは別なんじゃないかな。
どんなに『感覚』が鋭くても、それを知らず知らずのうちに『ものの見方』で『着色』、『脚色』してしまえば、『ジャッジメント』に囚われて重くなっちゃう。
生きている以上、私たちは『ものの見方』とは切っても切れない関係にあるんだ。
私たちは、ものに意味を付けたがるし、ジャッジしたがる。
私たちが「生きる」ということは、『興味深い(面白い)ものの見方』を持つこと、創り出すことと、同意義なのかもしれない。
私は思うのだ。
『興味深い(面白い)ものの見方』があってもいいし、『ジャッジメント』があってもいいと。
ただ、それに『気づき』、それを『自覚』して、それに振りまわされなければいいだけなのだと。
どんな『ものの見方」が浮上しようとも、
どんな『ジャッジメント』が浮上しようとも、
「アハハ、今、面白いものの見方が浮上してるなぁ」と、笑って破壊してアンクリエイトしちゃえばいい。
そうすれば、私たちは、何のものの見方もなく知覚し、すべてを受け取ることができるんじゃないかな。


青い眼鏡の世界は
青い色した眼鏡を通した世界は青い。
赤い色した眼鏡を通した世界は赤い。
眼鏡を外して見た世界は、
さて何色だろう?
今、浮上したものすべてを破壊してアンクリエイトしますか? #ものの見方 #ジャッジメント


何が軽い?
「正しい」とか「間違い」だとか、「良い」とか「悪い」とか、そんな「ジャッジメント」を基準に「選択」していると、どこまでも「ジャッジメント」があなたを追いかけ、あなたを「重く」するでしょう。
何があなたにとって「軽い」?
何があなたに、とって「重い」?
何のジャッジメントもなく、「無防備」に、ただ「問いかけ」てみて。 今、浮上したものすべてを破壊してアンクリエイトしますか? #良い悪い #正しい間違い #ジャッジメント #軽い重い


ジャッジメントとアウェアネス
ジャッジメントをアウェアネスと誤認誤用しているところ、アウェアネスをジャッジメントと誤認誤用しているところ、すべてを破壊してアンクリエイトしますか? #ジャッジメント #アウェアネス #誤認誤用


それは偽りの自分
自分の「ものの見方」を正しいものだと固執していると、他の人のもつ「もののみかた」を、ついつい正しくないものと見なしてしまいます。
10人いれば、10の立場、10の「ものの見方」があります。あなたにも、もちろん、あなたの立場、あなたの「ものの見方」があります。
その、どれが正しくて、どれが正しくないかなんて、実はなくて、すべては「興味深い(面白い)ものの見方」があるだけなのです。
自分の立つ場所から見える風景に固執してしまうと、他の人が立つ場所からしか見えない風景を、見過ごしてしまう。
もし、自分が正しくなくてよかったとしたら?
もし、自分が悪者でもよいとしたら?
あなたに、どんな可能性が広がるでしょう?
そこから、どんな風景を見ることができるでしょうか?
自分の「ものの見方」や「ジャッジメント」も、単なる一つの「興味深い(面白い)ものの見方」だとして「許容」できたら?他人の「ものの見方」や「ジャッジメント」も単なる一つの「興味深い(面白い)ものの見方」だとしたら。
あなたは、なんの「ものの見方」もなく、すべてを許容する「無限の存在


優劣をつけなきゃダメ?
和食が優れているか、それともイタリアンが優れているか?それともフレンチ?
そんな議論はどうでもいい。好きな時に好きなものを食べればいいだけじゃないかな?
無限の可能性として、ただすべてをなんのジャッジメントなしに受け取ることができると知っているのにどんな愚かさを使って、ものごとをジャッジし重要性を持たせ、優劣を付けることに価値を置き愛しているのでしょうか?
今、浮上したものすべてを破壊してアンクリエイトしますか? #優劣 #ジャッジメント #好きなものを好きなときに


劣等感を愛している?
本当は無限の存在して、優越感も劣等感も単なる面白いものの見方だと気づいているのに、どんな愚かさを使い、それに気づかない振りをして、惨めな自分を演じ、そんな役にも立たない自己虐待、自分を苛(さいな)む劣等感を後生大事に価値のあるものとして愛しているのですか? いま浮上したものすべてを破壊してアンクリエイト? #優越感 #劣等感


自分であること
偉ぶる必要もなければ、卑下する必要もない。 他の誰かを自分よりも大きく扱う必要もなければ、自分よりも小さく扱う必要もない。
単なる面白いもの見方を基にした比較の中に自分の価値を見出すのではなく、ただ、ただ、自分自身であること。
どんな愚かさを使い、他の誰かを上にしたり
下にしたりする自己虐待を続けることに意義を見出し愛してますか?
今、浮上したものすべてを破壊してアンクリエイトしますか? #自分であること #Beingyou #自己虐待 #比較しない #上も下もない